ギリシャの時代に戻って
九月の末は学会がありの科学基礎論セミナーありの、発表に勉強会に忙しかった。
ところで最近思うところ、「科学」とは何か。という疑問である。
「文京科学大学」というサークルを運営しているが、サークルの趣旨として「科学」とは何かを考えることに一つ重要なウェイトがあるのだが、私のような自然科学、特に物理のようなものを学んでいても科学というのはギリシャのソフィストの営みと通づるものがあるのではないか、ということを強く感じている。
ギリシャのソフィストにたいしてソクラテスの批判があって、私の解釈としては、
「テクニカルには整っていても納得がいかないし、行くようつとめたところでいかないのは実はいい加減だからなのであって、詰めるべき中身が本当はあるからなのだと気付いた」
というような類なのだが、それはじつのところ理論物理にも言える話だし、多くの人と議論している中で、「〇〇がわからない」と言っている人にたいして「じゃあどこがわからない?」と聞くと、思わぬ、そして非常に鋭い指摘があったりするものなのである。
私自身、〇〇がわからないと思って質問をしたときに相手を深く悩ませることになった経験があるし、また逆もあるわけだから、非常に身近なはずの問題なのである。
科学の営みがいかなるものかを振り返るに当たって、まずこのような意味でギリシャのソフィスト時代の特徴が生きていることを言わざるを得ないように思うし、追加して言わねばならないことも多い。
つまるところ、学者の話を聞くと現時点で検証不能なある種の強い信念を背景に持っているような感じがある。しかもそれが自分からすると「トンデモ」とさえ見えるような何かであるケースもある。検証できない様々な信念を持つ人たちの間でコンセンサスを取りながら進めるのが科学のやり方なのである。
ところでではコンセンサスはどうやってとるのか?
たしかに「実験」であったり、論理構造であったり、いろいろな着眼点はある。しかしながら、実験は本当に正しいのかというとそうではない。つまるところ、実験には理論に考慮されていない効果が平然と入ってくる。そのような背景を持っていてなお理論予想と数値が合いましたというのは可能性として二つある。すなわち
・考慮されていない効果が小さく理論予想と実測値が対応するケース
・考慮されていない効果が小さくないのだが、複数の要素が打ち消しあうように働いて結局見えないケース
前者の場合理論予想なるものがちゃんと理論を説明するものだと言える。
しかし、後者の場合、それは理論として妥当なのか?
すなわち、複数の要因がたまたま実験で調べた条件では打ち消すようになっていて、条件が少し違うと全く打ち消さないような可能性もありうる。つまり、実験に適合した範囲の理論計算に最大の寄与をもたらす項が一般に最大とは言えない。
いずれにせよ、実験検証は有限リソースで行われるもので、後者を排除することはできない。
けれども実験結果は無矛盾な場合がある。
実験結果もある意味で「説得の材料」にすぎない。つまり、「隙間」が平気である。
にもかかわらず実験を信奉している記述が多い。つまり、説得工作として実験結果が機能している。だが、説得工作だと言ってしまえばどちらかといえば「ソフィスト」と変わらない。
つまり、科学の営みはソフィストによる説得行為であって、ある種多様な信念を反映した「文化」なのではないかと。
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